●控訴審で初めて死刑を“求刑”した事例

 通常、求刑は一審の結審前、検察官が論告と共に行うものである。ところが、一審で死刑を求刑しなかったにも関わらず、検察が控訴し、控訴審で死刑を“求刑”した例が稀にある。

事例1.1948(昭和23)年11月26日 大阪地検控訴 竹山晴日
 1948(昭和23)年11月17日 大阪地裁 宗元義雄・竹山晴日に無期懲役判決(求刑:宗元死刑、竹山無期懲役) 検察側のみ控訴
 1949(昭和24)年6月17日 大阪高裁 宗元・竹山に無期懲役判決(求刑:両名とも死刑) ※旧刑訴法のため、「控訴棄却」ではなく「無期懲役」判決

 控訴審判決文冒頭より。
「右宗元、竹山に対する強盗殺人並強盗、野口に対する強盗各被告事件に付、昭和23年11月17日大阪地方裁判所が言渡した有罪の判決に対し被告人等及宗元、竹山に対して検事から各控訴の申立があったので当裁判所は検事前堀政幸関与の上審理を遂げ左の通り判決する。」

 宗元と竹山の2人は大阪の寺院に強盗に押し入り、尼僧とその母親を縛り上げた。強盗後、逃走を容易にするため、被害者両名を布団蒸しにし、さらに上に机等を置いて逃走した。そのため、両名は窒息死した。

 一審初公判で宗元と竹山は共に起訴事実を全面的に認めた。同日、検察は宗元に死刑、竹山に無期懲役を求刑。第2回の判決公判で裁判所は、両名に無期懲役を言い渡した。
 さて、検察が宗元の量刑に不服があるならば、宗元について量刑不当を主張すれば事足りるだろう。ところが検察は「求刑が誤っていた」として、両名について死刑を求めて控訴した。結果は控訴審でも両名とも無期懲役であったが、なぜこんな事態が起きたのだろうか。

 当時の新聞には次のようにある。
 「大阪地検では『共同正犯として両名の罪状にほとんど区別は認められず、無期では軽すぎる』と判決後にわかに見解を変更し、被告竹山については求刑通りの判決であるにも拘わらず、26日両被告とも断固として検事控訴することとなった。大阪地検米田部長検事談『求刑は検挙した犯罪事件に対してなされるもので、1名の被告の求刑が誤りであったことを知ったうえは、検事控訴をすることは差し支えないと思う』」(1948年11月26日 大阪新聞)
 当初は宗元を主犯とみていたが、判決を受けてその見解を変えたということだろうか。それとも、求刑について上層部や上級庁から批判を受けたというような経緯でもあるのだろうか。

 また、控訴審判決文を読んだ限りでは、検察は(殺意のある)「強盗殺人罪」で起訴したが、(殺意のない)「強盗致死罪」と認定されたように思われる。宗元のみ控訴しても、竹山の強盗致死罪は確定してしまうため、判決に影響が出る。だから両名とも控訴した…とも考えられる。しかし、そうだとしても、両名について「事実誤認」と、宗元のみについて「量刑不当」を併せて主張すればいいわけで、主張を変えて両名に死刑を求める必要はなかったのである。

 なにはともあれ、詳しい資料を見たことがないので言えるのはこれくらいである。


事例2.1948(昭和23)年12月初旬頃 広島高検岡山支部附帯控訴 藤原忠志
 1948(昭和23)年11月29日 岡山地裁 藤原古男・忠志兄弟に無期懲役判決(求刑:古男死刑、忠志無期懲役) 被告人両名、および検察が控訴
 1949(昭和24)年4月20日 広島高裁岡山支部 古男に無期懲役、忠志に懲役15年判決(求刑:両名とも死刑)

 控訴審判決文冒頭より。
「右被告人両名に対する強盗殺人被告事件につき、昭和23年11月29日岡山地方裁判所が言渡した有罪判決に対し両被告人に対し、検事よりまた被告人両名より、夫々適法な控訴の申立があったので、当裁判所は検事今井和夫関与の上更に審理を遂げ、次の通り判決する。」

 藤原古男・忠志兄弟は共謀の上、知人宅に窃盗に入ったところ、顔を見られたため殺害し、強盗殺人罪に問われた。
 一審で検察官は犯行を持ちかけた兄の古男に死刑、弟の忠志(犯行当時17歳)に無期懲役を求刑。判決では両名に無期懲役が言い渡された。

 事例1の直後であり、当時検察内部で何らかの動きがあったのかもしれない。事例1と異なるのは、被告人両名からも控訴があったことと、特に事実誤認があったわけではないようであるということ、控訴時ではなく控訴審初公判で求刑を変更したらしいこと、以上3点である。

 山陽新聞の記事によれば、藤原兄弟が控訴後、検察も直ちに附帯控訴(※)したとのことである。翌1949年2月8日、控訴審初公判で高検の検察官は、求刑を一部変更し、忠志についても死刑を求めた。しかし、昭和24年1月1日に少年法が改正され、犯行時17歳未満の少年に対して死刑を言い渡すことが禁止されていた。にも関わらず、不可能であるはずの求刑変更を行った検察の動向は不可解である。敢えて死刑を求刑しないと、無期懲役選択の有期懲役に減軽されることは免れない考えたのだろうか。少年法改正前後の控訴審では、本件以外にも17歳未満の少年に敢えて死刑をした事例が散見される。
 結局、控訴審判決では、忠志に対して一審より軽い懲役15年が言い渡された。少年法の改正で、「罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、無期刑をもって処断すべきときであっても、有期の懲役又は禁錮を科す。この場合において、その刑は、10年以上15年以下において言い渡す」(少年法第51条2項)とされたからであると思われる。旧法ではこの減軽対象は16歳未満であった。

 なお、控訴審判決文からは、検察官の控訴が通常の「控訴」であったのか、山陽新聞の記事にあるように「附帯控訴」であったのかは確認できなかった。

 山陽新聞の記事には、岡山地裁判事の話として次のような内容が掲載されている。
「満18歳(注:忠志は犯行時から控訴審判決時に至るまで満17歳)の少年に対する死刑の求刑や、一審より二審の求刑が加重されることは、まれである」
 控訴審で求刑を重くすることは稀にあったようである。無期懲役の求刑を死刑に変更した例がほかにもあったかは定かではない。

 ※「附帯控訴」とは…現在は民事裁判で認められている手続き。弁護士の方のブログに分かりやすく書かれているので、こちらをご参照ください。旧刑訴法では検察官に「附帯控訴」が認められていた(第399条 控訴裁判所ノ検察官ハ弁論ノ終結ニ至ル迄附帯控訴ヲ為スコトヲ得)。しかし、被告人側の控訴に対する不利益変更禁止に抵触するためか(この規定は旧法でもあった)、現行刑訴法では廃止された。


事例3.1965(昭和40)年10月19日 東京地検控訴 島田理之
 1965(昭和40)年10月4日 東京地裁 島田に無罪、酒井に無期懲役判決(島田の求刑は放棄、酒井に死刑求刑)
 1969(昭和44)年3月26日 東京高裁 島田の一審破棄、無期懲役 酒井の控訴棄却、無期懲役支持(求刑:両名とも死刑)

 CMソングプロダクション「三芸プロ」の総務課長だった島田理之は、会社乗っ取りのため社長殺害を計画。タクシー運転手・酒井幸雄を殺し屋として雇い、帰宅途中の社長を殺害させた。島田と酒井は殺人罪等で起訴された。

 ところが、公判中に島田が精神病である疑いが強まり、2度の精神鑑定でも心神喪失との結果が出た。刑法第39条1項には「心神喪失者の行為は罰しない」と定められており、鑑定結果を受け入れるならば島田には無罪を言い渡すほかない。そのため、検察は論告求刑公判において、酒井については死刑を求刑したが、島田については求刑を放棄して裁判所に“しかるべく”判断を求めた。事実上、検察が敗北(=無罪)を認めたわけである。(大手3紙のうち、これを事実上の「無罪論告」と報じたのは読売新聞のみで、他紙は慎重に「死刑か、無罪か」といった程度の表現にとどめているが。)

 結果、東京地裁は島田に無罪を言い渡した。酒井については死刑を回避して無期懲役の判決。計画者(主犯)が無罪で、実行犯が無期懲役というのも異例である。さて、このまま何事もなく時が過ぎれば、検察は少なくとも島田については控訴しなかったと思われるのだが…

 島田は無罪判決後、精神衛生法に基づき強制入院させられた。ところが、収容先の精神病院で医師に対し、「精神病は仮病だから退院させてくれ」と言ったり、家族や知人に「裁判官をうまく騙して無罪になった」といった内容の手紙を送るなど、不審な言動を起こし始めたのである。この事実は当然検察庁にも報告され、慌てた検察は拘置期限(2週間)である19日になって土壇場の控訴(この時、酒井も量刑不当で併せて控訴)。島田は逮捕後、家族から精神病に関する書籍を差し入れてもらったり、偶然同房になった精神病患者の言動を観察するなどして、巧みに精神病を演じていたのであった。無罪判決は、2人の鑑定人(精神科医)、検察官、裁判官を騙し切った結果、勝ち取ったものであった。
 …しかし、島田は無罪が確定したものと思い込んでいたようで、強制入院後即座に詐病を告白したのである。あと2週間、欺き続ければ、彼は無罪となっていた可能性が高い。法はこの狡猾な男を危うく野放しにするところであったのだが…なんとも哀れにも思える。
 本件は秋元波留夫著『刑事精神鑑定講義』(創造出版 2004)に詳しい。


○予備事例の紹介

 さて、ここで「刑事裁判資料56号(下巻 無期刑編)」に気になる事例があったので紹介する。下記の3件は調査表によると、いずれも一審で無期懲役が求刑され、求刑通りの判決が出ているのに、なぜか検察が控訴しているのである。しかも、控訴審での求刑も無期懲役。一部事実誤認等を主張したのかもしれないが、なんとも不可解である。

 いずれも控訴審判決文のみが紹介されている。その冒頭には「〜から控訴の申立があったので…(中略)…左の通り判決する」と書かれているのだが、その形式は統一されておらず、通常の控訴(地検検事の控訴)なのか附帯控訴(高検検事の控訴)なのかは明らかでない。ただ、予備事例1を除き、原審検事の控訴(しかも予備事例3については検察側のみの控訴)なので、少なくともこの2件に関しては附帯控訴ではないようである。

 ところで、この資料の調査表には誤りがかなり多い。被告人名や求刑、判決日が誤っていたり、確定日(判決日を採っていたり期間の計算を誤っていたり)や被害者数(未遂を含むか否か)に関して内容が不統一であったりと、結構いい加減なのである。だから、調査表の一審判決の表記が誤っている可能性もあるし、求刑の表記が誤っている可能性もある。ほぼ信頼できる情報は、全文が登載されている控訴審判決のみといっていいかもしれない。だから、以下の中にも、一審では無期懲役を求刑したのに、控訴審で求刑を死刑に変更した事例があるかもしれない。
 どの情報が正しくて、どの情報が誤っているか…こればかりは判断のしようがない。ただ、一応気にはなるので予備事例として3件紹介しておく。もしかすると、検察の附帯控訴が認められていたような旧法時代には、控訴審で求刑を変更して死刑を求めるという事例も、そう珍しいものではなかったのかもしれない。
 下記の事件当時の報道を調べてみたが、なにぶん終戦直後の事例なので、ほとんどが確認できなかった。

 ちなみに、上巻の死刑編を確認したが、求刑通り死刑判決が下った場合、検察が控訴した事例は無かった。唯一、平沢一眞について検察が控訴しているが、これは調査表の一審判決(死刑)が誤っている。実際の一審判決は無期懲役であった。


(予備事例1.太田謹吾)
 1946(昭和21)年12月28日 京都地裁 無期懲役判決(無期懲役求刑)
 1948(昭和23)年11月11日 大阪高裁 無期懲役判決(無期懲役求刑)

 控訴審判決文冒頭より。
「右の者に対する強盗殺人被告事件につき京都地方裁判所が昭和21年12月28日言渡した有罪の判決に対し、検事及び被告人から控訴の申立があったので、当裁判所は検事前田多智馬関与審理を遂げ左の通り判決する。」

(予備事例2.切上国芳)
 1948(昭和23)年7月9日 徳島地裁 無期懲役判決(無期懲役求刑)
 1948(昭和23)年12月8日 高松高裁 無期懲役判決(無期懲役求刑)

 控訴審判決文冒頭より。
「右殺人被告事件につき徳島地方裁判所が昭和23年7月9日言渡した有罪判決に対し被告人及び原審検事から控訴したから検事西本定義立会審理をして次の様に判決する。」
 本件については調査票の一審判決が誤りで、実際は懲役15年判決であったことが判明した。なお、一・二審とも心神耗弱認定。

(予備事例3.佐久間和夫)
 1949(昭和24)年1月21日 仙台地裁 無期懲役判決(無期懲役求刑)
 1949(昭和24)年5月28日 仙台高裁 無期懲役判決(無期懲役求刑)

 控訴審判決文冒頭より。
「右の者に対する強盗殺人死体遺棄被告事件につき、昭和24年1月21日仙台地方裁判所が言渡した有罪判決に対し、原審検事から控訴の申立があったので、当裁判所は、刑事訴訟法施行法第2条に従い、検事高橋源治関与の下に更に審理をとげ左の通り判決する。」
 報道により、一審の求刑が無期懲役であったことだけ確認できた。この被告人は犯行時19歳の少年である。

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